国宝天守の5城

松本城

漆黒の軍事基地

前身は深志城、武田信玄が小笠原氏から奪いとりましたが、徳川家康の支援を受けて 小笠原貞慶が城を回復して城下町の整備にあたり深志をあらため松本としました。 その後、豊臣秀吉から8万石をあたえられた石川数正その子、康長によって天守(本丸)、 二の丸などが整備されていきます。

松本城

5つの国宝の集合体

大天守、小天守、櫓など5つの建物が絶妙なバランスで連結して天守群を形成しています。 5つの建物は同時期に建てられたのではなく、徐々に増築されていったことには驚きです。 ほかにも黒が基調の城はありますが本物の黒漆塗りは松本城だけのようです。

戦国時代に建てられた大天守、乾小天守、渡櫓には鉄砲狭間、矢狭間、石落としがあり壁の厚さも29センチもありますが、平和な時代に建てられた月見櫓は三方が吹き抜けになっている優雅で開放的なつくりです。また、ほかの城にある天守上階の廻り縁は松本城にはありません。

松本城天守

下見板張の秘密

漆喰で仕上げられた外壁の下部、黒い部分が「下見板張」です。板には松煙と墨を柿渋に混ぜた「渋墨」が塗られています。その上から独自の艶をだすために黒漆が塗られています。上の黒漆の部分を毎年塗り替えているそうです。漆は気候に対してもデリケートなので毎年初秋の作業となるようです。黒漆が使われているのは松本城だけだそうです。

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姫路城

優美で強い、世界遺産

羽柴秀吉によって本格的な近世城郭になったのち、城主となった池田輝政によって1609年(慶長14)には 連立式天守が完成、さらに本多忠政によって西の丸がつくられ、城の形が完成しました。明治期に大手門や御殿が失われますがその後は大きな戦災も受けずに終戦となり、昭和、平成と大修理も2回おこなわれました。 1993年にはユネスコ世界遺産への登録もかないました。

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トラップいっぱい、巨大迷路

大天守、東小天守、乾小天守、西小天守を「イ」「ロ」「ハ」「ニ」の渡櫓でつないだ連立式天守、8棟全てが国宝指定されています。その他にも櫓、門などの重要文化財が74もあります。それらの建築技術はもちろん、奇跡的に現存保存されていることが世界遺産となりえた理由だそうです。

かつての姫路城には80もの城門があったようです。今は19の門があり、写真は「は」の門で「いろは」順ですから、近くに見える天守に近づくには今でもあと10以上の門をぬける、城を攻める側としてかなり大変な構造になっていることが確認できます。

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"白すぎ城"が見れるのは短い期間だけ

今の真っ白な姫路城をみれるのは短い期間だけのようです。 漆喰の白さは、数年で徐々に失われていくようです。原因は漆喰が黒カビに弱い性質を持っていて、浸食が進み色合いが落ちるのだそうです。 実際に、天守の右側に位置している乾小天守と西小天守は、2002年に修復工事が行われていますが、屋根には黒さが戻ってきています。今回は防カビ用の薬剤を混ぜて対応もしているようですが、 漆喰の塗り直しは池田輝政の時代からおこなれていて、当時も”白すぎる”と話題になっていたようです。

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松江城

湖畔の軍事要塞

月山富田(がっさんとだ)城に入った堀尾吉晴が新たな起点として築城したのが松江城です。 宇賀山を切り開いて広い水堀をつくり、掘り出した土砂で広がる遠浅の地を埋めて城下町としました。 堀尾氏に続いて京極氏が入城するが嫡子に恵まれず断絶、その後、松平直政がはいり以降明治維新まで松平城主が続きました。

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戦闘モードの天守

外観五重、内部六階の構造で外観は全面板張、二重櫓の上に下見板張の三重櫓をのせた望楼型天守です。 地下に深い井戸があるのも特徴です。天守正面に付櫓を持つ複合型天守ですが、付櫓は飾りであるわけはなく、付櫓に狭間や石落としがあるのは当然ですが、付櫓に敵が侵入されても(むしろ侵入させて)天守から 付櫓ごと攻撃できるように内側から鉄砲狭間がきられています。

2012年、行方が分からなくなっていた天守地階にあった二枚の祈祷札が発見され、松江城天守の完成が1611年(慶長16)であったことが確定しました。これが決め手となり2015年、65年ぶりに国宝に指定されました。現状レプリカの祈祷札が天守地階に貼られています。

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出雲そばのルーツ、松江城にあり

昭和の時代に松江に旅行したことがあり、城にはいったものの印象はうすく、逆に良くおぼえているのは そばと旅館でだしていただいた抹茶がおいしかったことです。その出雲そば、長野県の松本城主だった松平直政が転封で松江に着任した時、松江に蕎麦職人を引き連れてきたのがはじまりだとか、お茶文化も松平氏の影響みたいです。

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彦根城

華麗かつ強い天守

関ヶ原の戦いで領土を得た井伊直政、新たな城を築くべく彦根山を候補地にしていましたが戦傷で死去、直政の子、直継の代にあらためて現代の地に完成しました。中山道と北国街道が合流するうえに京にも近いこの地を徳川家康も重要視していたようで、徳川家の権力と威厳の象徴の役割も担っていたようです。

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地の利を活かした美城

彦根城を外側から眺めると、狭間がまったくないようにみえますが全て隠し狭間になっていて50以上あるようです。いざとなったら壁がぬけるようになっているようです。中央の入母屋破風の裏側も隠し部屋になっていてその部屋にも隠し狭間があるようです。外観をすっきり見せる工夫と同時に戦う準備はしっかりとできている城なんですね。飾り金具や二重の花頭窓も彦根城の特徴です。

彦根城の北側、今は平地になっていますが江戸時代には「内湖」と呼ばれた湖だったようです。 天然の要塞であることはもちろん、琵琶湖にもつながっていたので物資の運搬にも便利だったようです。

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エコでリサイクルなお城

彦根城は近隣の廃城から資材を寄せ集めたリサイクルな城でもあります。天秤櫓や三重櫓は長浜城、 太鼓門は佐和山城、天守は大津城、石垣や用材も他の城からの転用とされています。資材を転用したのは 節約のためでも時間の短縮のためではなく、敵の財産を自分の所有としたという勝利宣言みたいなものだったようです。

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犬山城

戦国期の姿を今に伝える

前身は現在地の南に位置する木下城、 1537年(天文6)織田信康によって現在の地に移されます。尾張、美濃国境の重要地に位置するために、城主は次々と変わりました。徳川家康の命により入城した成瀬正成のころに唐破風を設けたりして現在の天守の原型が完成されたようです。

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古式な望楼型天守

典型的な望楼型天守、窓は一階の開戸に対して二階は突上戸になっています。最上階には廻縁と高欄、その下に唐破風、華頭窓は壁に貼り付けられた装飾で窓としては機能していません。廻縁は観光客も外に出て回ることができます。最上階が柱などを塗籠めずにそのまま使う真壁つくりも特徴です。

犬山城の天守は正面に付櫓がついた複合式天守ですが、西北隅にもう一つ付櫓がついています。 写真がそちら側から眺めた場合です。大きさは正面の半分ぐらいなので付櫓とするのか? 公式サイトでは「石落しの間」となっています。いづれにせよ、犬山城の特徴のひとつです。

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絵になる名城

犬山城天守の廻縁にでての眺望が素晴らしいのは当然ですが、ぜひ木曽川を挟んでの景色も楽しみたいです。 ふたつの橋を渡って木曽川沿いをぐるっと一週できるぐらいの時間的余裕を持って訪ねたいですね。遊覧船から眺めるなんてのもいいですね。

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