重文天守の7城

弘前城

東北唯一の現存天守

戦国時代、津軽を統一した大浦(津軽)為信が築城を計画、2代の信枚時代、1611年(慶長16)に完成しました。その時は5層の天守でしたが落雷により焼失しました。現3層の天守は9代 寧親(やすちか)の時代1811年(文化8)に完成しました。

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明治以来の「曳屋」

現在の3層の天守はお城の新築や増築が厳しく規制されていたこともあり、「本丸辰巳櫓の改築」という名目で建てられた3重櫓を天守代用としました。2020年現在、天守は土台の石垣修正工事のために70m「曳屋」されて写真のような状態になっています。

日本有数の桜スポット

弘前城は総面積49万2千ヘクタールあり弘前城公園として整備されています。 現存天守以外にも3つの櫓と5つの城門も江戸時代のものが残っています。約50種類2600本にも及ぶ桜の名所でもあります。

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丸岡城

古式ゆかしき、渋城

1576年(天正4)柴田勝家の甥、柴田勝豊が築城しました。勝家の城「北庄城」の支城としての役割が強かったようです。勝豊が長浜にうつり4代を経て本多成重が入城して福井藩から独立、本多氏4代、有馬氏8代で明治維新を迎えました。

丸岡城写真
丸岡城写真

別名「霞ヶ城」

二重三階の望楼型天守です。通柱を用いずに直接土に柱を埋め込んでいたり、柱が白木のままだったりとつくりの古さを感じさせます。石垣も古い野面積みです。天守内部も簡素で装飾はほとんどなく、一階の出格子窓がアクセントにあるぐらいです。大蛇と霞の伝説が残っています。

雨の丸岡城

見逃してならないのは、石瓦で葺かれた屋根です。福井市内で採れる笏谷石(しゃくだにいし)を加工したもので、寒さの厳しい豪雪地帯では普通の瓦では割れてしまうため石製の瓦が使われているようです。雨に濡れると独自の青みが増してお城の雰囲気も変わるといわれています。

丸岡城写真

備中松山城

現存最高所の山城

城史は13世紀までさかのぼれますが、関ヶ原の戦い後、代官として小堀正次、政一(遠州)親子、続いて池田長幸が城主となります。今の近世城郭が完成したのは水谷勝宗が城主であった1683年(天和3)頃だといわれています。

備中松山城写真1
備中松山城写真2

バランスのよい2重天守

標高430メートル小松山の上に天守が立つ、現存天守唯一の山城です。二重二階ですが西側に下屋がついているために三重にみえます。正面の唐破風と出窓が特徴的です。内部一階には長囲炉裏、二階には神棚もあります。

城と寺と庭園

城下町、備中高梁の寺院は高石垣で囲まれ備中松山城を守るように配置されています。武家諸法度という幕府の規制でお城の増改築もむづかしく、出城の代わりに寺をおき城塞化したと思われます。その寺のひとつ頼久寺に小堀遠州作の庭園が残っています。

備中松山城写真3

丸亀城

高石垣の小城

高松城の城主、生駒親正が西讃岐のおさえとして丸亀城を築城、子、一正をおくが1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となってしまいます。その後の城主山崎家治、京極高和と古城を改修して今の天守が完成します。

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シンプル、でも個性的

正面にあたる北面は、出窓のような張り出しに格子のデザイン、南、東側も唐破風、千鳥破風で飾られ一層を下見板張り(黒板)と装飾されています。西側だけ下見板張りもなく漆喰を塗っただけ、装飾がないのは元々あった多門櫓に続いていたためではないかと考えられています。

三つの日本一を持つ

標高66メートルの亀山に4段かつ扇型に石垣が築かれています。螺旋階段のように連なる高石垣の総高は日本一といわれています。またその上に鎮座する天守は現存天守の中では最小です。二の丸にある井戸は65.4メートルとこちらも日本一深い井戸とされています。

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高知城

勇ましい南海の名城

現在の高知城は、初代土佐藩主の山内一豊が1601年(慶長6)に幕府から許可を受け大高坂山に造成、本丸と二の丸を完成させました。その後、二代忠義が三の丸を造成ほぼ今のかたちになりました。1727年(享保12)に天守が焼失しますが1749年(寛延2)に桃山式復古型天守で再建されました。

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本丸内が丸ごと現存

高知城の魅力は天守だけでなく、本丸の城門や櫓、御殿までもが現存している ところです。(写真手前が御殿です。)ちなみに御殿は全国でも4棟しか現存していません。 望楼型の天守、最上階には高欄つきの廻縁をめぐらす古風なつくりになっています。

別名「鷹城」

高知城独自の仕掛けとして「忍び返し」があります。石垣を登ってくる敵の侵入を防ぐ装置です。石垣から飛び出している石材、こちらは排水装置で「石樋(いしどい)」といわれています。全国でも1、2を争う多雨地域ならでは工夫ですね。

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松山城

複雑な構造、連立式天守

賤ケ岳七本槍で知られる加藤嘉明が築城したのは1603年(慶長8)、嘉明がつくった五重の天守は松平定行によって1642年(寛永19)に三重天守に改築されました。その天守も落雷によって焼失、1820年(文政3)に再建工事がおこなわれ35年を経て完成しました。現存天守中では最新の天守となります。

松山城写真1
松山城写真2

バーチャルな城攻め体験

写真中央に小さく見えているのが本丸(天守)ですが、直進してしまうと 袋のねずみとなるおとりの道です。手前の太鼓櫓を右折が正しい道のようですが、そのあとも 6つの門と櫓、鋭角的な通路、石おとしや無数の狭間とバーチャルな城攻め体験ができる仕掛けでいっぱいです。

天丸とまつ姫

2006年(平成18)の修理の時に屋根の鯱(シャチホコ)が新調され、 その時に愛称が公募されました。南側が「天丸」北側が「まつ姫」と決まりました。 玉をくわえている「天丸」と閉じている「まつ姫」で一対になっているんですね。 古い鯱はロープウェイ駅に飾られているようです。写真など 公式サイトでご覧ください。

松山城写真3

宇和島城

太平の世の城

藤堂高虎は1596年(慶長元年)に板島丸串城とよばれていた城を近世城郭に改修しました。その後、高虎が伊勢へ移され富田信高、伊達政宗の長子、伊達秀宗が城主となり宇和島と改名されました。現天守は二代、宗利が三重三階の望楼型から層塔型へと改めました。

宇和島城写真1
宇和島城写真2

装飾性の高い天守

石落とし鉄砲狭間などはひとつもなく、太平の世の天守をしめしています。各階の破風は攻撃のための破風の間などつくらず装飾のためだけにあります。内部は天守では珍しい障子張りとなっています。

豊かな森に抱かれた城

明治時代、城と共に森が取り壊される危機がありました。そこで地元の人々は、町のシンボルを残そうと、元城主の伊達宗城(むねなり)の力を借り、保護してきました。今では植物学者が研究にやってくるほど豊かな森となっています。

宇和島城写真3