なんばコース

道頓堀(竹本座跡)をスタート地点として、北へ、西へむかいます。

なんば地図

『蔵丁稚』

船場の商家の丁稚、定吉は大の芝居好き。今日も朝の十時頃、島之内まで使いに行って夕方に帰って来た。 いろいろと言い訳をするが、芝居をみていたのを旦那はおみとおし、かまをかけて芝居の話をもちかけ、定吉は 「その場面やったら今まで見てた」と白状してしまう。お仕置きにと旦那は定吉を蔵に閉じ込めてしまう。 おなかがすいて仕方がないので、気を紛らわせようと旦那が浄瑠璃で使う肩衣や葬礼差(刀)で「仮名手本忠臣蔵」 判官切腹の場面を一人で演じているところを女中がみつけ「定吉が切腹している」と旦那に報告したものだから大騒ぎ、 おなかが空き過ぎておかしくなったんだろうと、旦那がお櫃をもって「ご膳!」(御前)。定吉が「待ちかねた。」

道頓堀五座のひとつ竹本座跡へ

道頓堀 丁稚といえば十才そこそこの年齢、今の時代では芝居好きという設定がおかしな感じがしますが 江戸時代にはテレビも映画もないし、役者が今の時代のアイドル的な存在だったのでしょうから、 大人はもちろん芝居に夢中になる少年も多くいたんでしょう、お給料はどれぐらいだったんでしょうか、 初めはもちろん無給ですよね。

江戸時代の道頓堀には大きな芝居小屋が五軒並んでいて、道頓堀五座と呼ばれていました。 中座、角座などは平成になっても現役でしたが、今ではなくなっているようです。かに道楽の向かいに 竹本座跡の碑(写真右)が建てられています。石碑そのものはよくあるものですが、ポスターはピンク色でかなり派手です。 ただ周りが「かに道楽」の蟹や「グリコ」の看板がある道頓堀ですからあまり目立っているとはいえません。


『まめだ』

歌舞伎役者・市川右團次の弟子に、三津寺の門前の膏薬屋「本家びっくり膏」の息子・右三郎がいたという。 右三郎は、ある雨の夜、芝居茶屋で傘を借りて帰宅する途中、傘が急に重くなったので、 傘をつぼめてみるが、何もない。「こら『まめだ』のせいやな。 ようし、ひとつ懲らしめたれ」と傘を差したままで トンボを切ってみせると、何かが地面にたたきつけられて逃げて行った。 母から「毎日子供が買いにくるが勘定が一銭足らん、銀杏の葉が一枚はいっている。」 そのうち、勘定は元通り合うようになり、子供も店に来なくなる。 ある朝、三津寺に人だかりがしている。 皆が「境内に、体一杯に貝殻つけた『まめだ』が死んでる。」というので見てみれば、 右三郎は、まめだが膏薬を買いに来ていたことを悟る。 「お前な、貝殻のままじゃ効くかいな……」 右三郎は三津寺に頼んで簡単な葬儀を取り計らってもらう。 住職が読経を始めると、突如、秋風が吹いて、銀杏の落ち葉が「まめだ」の死骸を覆った。 「あ、お母はん見てみ。たぬきの仲間からぎょうさん、香典が届いたで」

戎橋を渡り、近くの三津寺へ

三津寺 はじめて聞いた時は秀逸なサゲの古典落語と疑いませんでしたが、1960年代の新作落語と後で知りました。 貝殻の膏薬など設定が昔となっているところが古典落語の雰囲気をだしているのでしょう。 元となったこの地域の古い噺もあったようです。また、登場する歌舞伎役者・市川右團次は実在したようです。 意外と四季の中では秋の落語が一番少ないようで、今では秋の落語の代表かもしれないですね。

写真三津寺の本堂(江戸時代の建立)は戦火をまぬがれて残ったらしいです。本尊の十一面観音は秘仏らしく変わりに 石仏のレプリカが外につくられています。秋になればお寺近くの御堂筋沿いは銀杏の落ち葉でいっぱいになります が、境内には樹木が一本もなく、少し寂しさを感じます。これだけの繁華街の中にお堂が残っているだけでも 奇跡ともいえますが。


『つぼ算』

少し抜けた男、かみさんから、二荷入りの大きさの水がめを買ってこい と、命じられる。一人では持てないし、おまえさんは人間が甘くて買い物が下手だから、 兄貴分の徳さんに一緒に行ってもらう。 徳さんはなかなかシタタカ。なぜか、一荷入りの小さい方はいくらだ と聞くと、三円五十銭。なんとか三円にまけてもらう。 「決まったよ。おい、金出しな」「だって兄貴、一荷入りじゃ」 「いいから出しとけ。おい三円、ここに置くぜ」 いったん歩き出すが、元の瀬戸物屋へ。 本当は二荷入りが欲しいと再交渉、二荷入りを六円とさせた上で、 「さっき、三円渡したな。で、この水がめを三円で取ってもらう。 払った三円とこの水がめでで六円。この二荷入り水がめ、もらうぜ」 何かおかしいとひっかかるおやじは算盤までもちだすが、 トリックを見抜けない、「三足す三は六ぐらいの算数がでけへんのか!」 とどなりつけられ、「もう、この壷もって帰っとくなはれ」 それを聞いた徳さん「それがこっちの思うつぼや」

御堂筋を北へ、坐摩神社内の火防陶器神社へ

坐摩神社 坐摩と書いて「いかすり」、火防で「ひぶせ」と読むそうです。このあたり昔は瀬戸物町と呼ばれていました。陶器を扱っていただけなのに (窯があったわけじゃないのに)なぜ火防(火除け、火の用心)かというと陶器を運ぶ時に傷つかないようにと使う詰め物のもみ殻や 藁が燃えやすかったので火防となっているようです。元は別の場所で、高速道路の建設で坐摩神社内に移されたようです。

ここ坐摩(いかすり)神社内には写真右のように「上方落語寄席発祥の地」の碑があります。江戸時代半ばに初代桂文治が寄席を建てた場所のようです。 それまでは大道芸だった落語を屋内で演じる高座というかたちに変えていったようです。落語そのものの発祥の地は生玉(いくたま)さん、 寄席の発祥の地は坐摩(ざま)さん(現地ではそう呼ばれているらしい)だったのですね。


『あみだ池』

男が「自分は新聞なんて読まなくても世間のことは何でも知っている」と言うので、 それを聞いた友人がそれならこれを知っているかと、阿弥陀池に泥棒が入った話を始める。 泥棒がピストルを尼さんに突きつけるが、尼さんが戦地で世話になった上官の未亡人だとわかり、 自殺しようとするので、 尼が「誰かにそそのかされて泥棒に入ったんやろ、だれが行けといった」と聞くと 泥棒は「はい、阿弥陀が行け(池)と言いました」。 真剣に話を聞いていた男は、いっぱい食わされたと悔しがる。その後も、 面白い話をされてはそれが冗談だとわかり、悔しいから同じ話を他人にしてこちらが騙してやろうと話を聞いてくれる人を探す。 やっと見つけて、米屋に泥棒が入った話を始めて、米屋の若いものが刺された場面に差し掛かると聞いていた相手が大騒ぎ。 その男は聞いていた相手の義理の弟だという。慌てて言葉遊びの嘘だと訳を話すと、 誰の指図でこんな嘘を言いに来たんだと相手が怒るもんだから、男は「阿弥陀が行けと言いました」。

長堀通りから阿弥陀池筋の和光寺へ

和光寺 明治四十年ごろに桂文屋という落語家がつくった新作落語で東京では「新聞記事」として演じられるようです。 新聞が一般化して行く明治後半にはタイムリーな話題だったと想像できます。元のタイトルは「新作和光寺」だったようですが、 「あみだ池」の方がタイトルからはストーリーが想像しずらく、ミステリアスな感じがしてよいと思います。

「あみだ池」の阿弥陀は池に捨てられた阿弥陀如来(仏像)を拾い上げたことが由来となっているようで、 池が先にあってそこに寺ができたということでしょうか?後に、その阿弥陀仏が信州善光寺のご本尊となったという伝説 もあるようです。伝説はたぶん嘘なんでしょうが、和光寺のご住職は通常は善光寺の京都別院におられるとのことなので 善光寺との関係はあるようです。本堂で「あみだ池寄席」が年四回開催されているようです。