サイプレス Vol.93
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北三陸福幸応援視察報告平成29年4月20日、21日、北三陸復興支援を目的とした視察旅行が開催され、17名が参加しました。8時44分大宮発の新幹線は架線の付着物により遅延。『1時間我慢』でスタートしました。11時45分盛岡着。そのまま北上観光バスに乗車し、わんこそばで有名な初駒本店へ直行。男性陣は150杯、121杯、117杯と100杯超が続きました。ちなみに女性陣は30杯が最高でした。(決してぶりっこではありません。)その後、みやこ浄土ヶ浜遊覧船へ乗り、穏やかな海から3億年の歴史を刻む地層や、数々の奇岩を眺めウミネコにパンをやり、自然と戯れました。宿泊場所の浄土が浜パークホテルには16時50分、予定通り到着。ホテル内で理事会も滞りなく開催されました。ほや、あわび、ウニ、わかめといった新鮮な地元の食材をいただきました。翌21日は今回の視察旅行のメイン、田老地区の「学ぶ防災」に参加。防災ガイドの小幡実様の案内で津波が乗り越えたという高さ10メートルの防潮堤にあがり、現在の田老町を見渡したあと、たろう観光ホテルへ移動。ホテルの海側は3Fまで山側は4Fまで壊れ、山からの跳ね返りの強さが刻まれていました。当時のまま災害のつめ跡の残る6Fで、津波の恐ろしさを伝えるビデオを鑑賞しました。防潮堤で視界がさえぎられ海が盛り上がっていることに気づかず、いつもと同じように走る消防車、のんびり歩く老人。ビデオを回す人の逃げろという声は届かず、4分間ですべてが海に飲み尽くされていく恐ろしさ。同じように津波のアナウンスを聞いたあとの生死をわけた違いは何だったのか。ガイドは伝承します。①いつもとおなじだ、逃げなくていいという判断ミス。②山へ一度逃げてから大事なものをとりに戻り、高台で『1時間我慢』をしない判断ミス。③防潮堤を過信し、防潮堤でカメラを回し続けて津波に飲み込まれた、技術への過信という判断ミス。明治29年、昭和8年、そして平成23年3月11日に津波を経験した田老地区。明治は『つなみてんでんこ』という言葉(津波がきたらてんでんばらばらで逃げろ、自分の命は自分で守れという言霊。)を昭和は脅威との間に壁(高さ10m、長さ2Kmを超える第一、第二、第三防潮堤)を遺し平成は高さ14mの壁を後世に遺そうとしています。平成のガイドは、「生き残ったほうも辛い。でも簡単に死ぬわけにはいかない」と語ってくれました。そして、「関東大震災をいい当てた人は遺言で地震が来たら、まずは火の元だと言ったそうですよ」、と私たちに生きる知恵を懸命に伝えてくれたのでした。その後、一行はバスに乗り込み北山崎へ。フジミック埼玉三科順子24vol.93

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